米英蔣[37]共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ[35]、同日、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された(産経新聞は1950年創刊でこの当時は存在しない)。この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している[35]。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。, トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった[32]。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた[32]。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし陸軍大臣阿南惟幾は、なおも戦争継続を主張し、議論は天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。, 10日未明の[38]御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された[39]。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた[40]。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした[39]。, 大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された[41]。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答[5]として決定された。回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した[41]。, この「バーンズ回答」は、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[42]とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」[43]というものであった。"subject to"の訳については「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり[44]、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した[41]。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[41]。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた[41]。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった[45]。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している[45]。, 8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。, 8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定を国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日である。 第2次世界大戦末期の1945年7月26日、米英中が日本に対し、降伏を求めるポツダム宣言の文書を出した。 以下、太平洋戦争の帰趨は少なくとも1944年7月に「絶対国防圏と目されたサイパンの陥落でおおよそ決まっていました。 2.26事件を生き残った鈴木貫太郎にとって軍部の横暴は計算ずくのことだろう。鈴木貫太郎が首相就任時にもアドバイスをしていたという政財界に帰依者を多数抱えていた龍沢寺の山本玄峰は、当時の弟子であった田中清玄にこう言っていたという。, 「軍は気違いじゃ。気違いが走るときは、普通人も走る。日本の軍という気違いが刃物をもって振り回している。今、はむかったら殺されるぞ。そのうち気違いは疲れて刃を投げ出す。それを奪い取ればいい。」(田中清玄自伝), 鈴木貫太郎は疲れるまで待つつもりだったのだろう。老練といえば老練、愚鈍といえば愚鈍。この人に対する賛否はまさしく両論である。, この1945年4月の末にムッソリーニが死亡し、ヒトラーは自殺。ドイツの降伏は翌5月8日。これを受けて鈴木首相と外務大臣、陸海大臣と総長による天皇が臨席しない最高戦争指導会議(5月11日~14日)で、ソ連の仲介を通じて和平交渉をすることが決定する, ただし、天皇を交えた翌月の6月8日の御前会議では戦争継続が確認されている。すなわち本土決戦である。, 極秘裏にソ連仲介での和平を探りながら、公式には戦争継続の姿勢を緩めぬということだ。, この時点で天皇の肚は決まっていたようだ。5月8日に講和時に武装解除と責任者処罰は致し方ないとの決断を木戸内大臣に語った。(『高木日記』)、それを受けたものとして、戦争継続が議論された御前会議の翌日に6月9日に、木戸内大臣からの上奏「時局収集の対策試案」を受けるこれは天皇の意向を踏まえたものとみなして差し支えはないだろう。, 内容は率直たるもので、「沖縄がもはや陥落したからには次の先行きが暗く、迎え撃つ戦力も45年下半期には喪失する。軍部より和平をすすめるのが良いものだが、現状それはできそうもない。ドイツがベルリン壊滅のようになった二の舞いを避けるべく、天皇陛下によって和平を決めてほしい」というものだった(「木戸幸一日記」), 木戸内大臣の言葉どおり、6/21に沖縄守備軍は全滅。そして翌日に天皇は最高指導者会議を開き、戦争終結にむけて動くように初めて指示を与えることになった。ここで初めて、米内海相と東郷外相は5月の戦争指導会議で和平交渉の開始されていることを明言する。, 陸軍はソ連が対米国の戦略的必要上、日本が弱体化することを望まないであろうという読みのもと、この方策を強行に主張していた。が、この時の東郷外相は終始悲観的であった。致し方なく、ソ連と直接交渉するべく近衛が引っぱり出されるも、その近衛自身は先に触れた「近衛上奏文」にて、その当時の陸軍がソ連と通じているという説に捕らわれており、その脅威に警戒していた立場として、全くこれには乗り気ではなかった。, 「あの急迫した時代に、六月いっぱいもの長時間をかけてソビエト側と無益の交渉をしていた、そのことである。満州問題をソビエトの有利に解決して、そしてソビエトをわが方に引き付けようとする魂胆から出発した日本の提案のごときは、当時の情勢において、とうていソビエトを満足させるものではなく、日本の壊滅が目の前に迫っているとき、こんななまやさしい考え方でソ連をわが方に引っ張るなどは、私の目には、いかにも児戯に類したこととしか思えなかった」-当時の駐ソ大使佐藤尚武-(「昭和史探索」半藤 一利), 内実、ソ連はカイロ会談でアメリカから対日参戦を強く要望されていて、そのタイミングを計っている状況であった。1945年2月のヤルタ会談では対日参戦をトルマーマンに約束もしている。そのためにこの和平交渉について返事を引き延ばしていたのである。また、この直前の1945年4月には日ソ中立条約の非延長も通達しており、ソ連が日本に有利な仲介をするとはとても考えられない情勢でもあったのである。ソ連は7月18日に近衛の特使派遣を拒否する。, そうこうしているうちに7月26日ポツダム宣言が発表される。この間、軍部、特に陸軍は本土決戦を主張するものが多数であり、これに気を配るつもりか、鈴木はこれを「黙殺する」と答え、これがアメリカには「ポツダム宣言拒絶」と報道されることになった。, 「7月26日のポツダムで発布された最後通牒では、この強力な破壊は日本人の身に降りかからないことになっていた。日本の指導者たちはこの最後通牒を即座に拒絶した。もしいまなおわれわれの要求を飲まないとなれば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が空から降るものと思っていただかなければならない」(広島への原爆投下を知らせるトルーマン大統領演説), 8日に東郷外相が天皇に原子爆弾に関する情報を報告したところ、次のように述べたという。, 「この種の武器が使用させるる以上、戦争継続は愈々不可能になれるにより、有利なる条件を得んがため戦争終結の時期を逸するは不可なり。条件を相談するも纏まらざるに非るか。なるべくすみやかに戦争終結をみるよすに努力せよ」(「「終戦史録」外務省), 翌9日に緊急で戦争指導者会議の開催が決定。しかし同日、トルーマンの予告通り長崎に再び原爆が投下される。, 「言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである」(米内海相 8月12日の発言『検証 戦争責任Ⅱ 読売新聞戦争責任検証委員会』) 2020/11/13 (昭和天皇独白録), 昭和天皇はこのように終戦直後に語っているが、その敗戦の受け入れの意志を実際に固めたのは、もっと後、1945年の6月頃と推測される。以下、これを順を追って見ていきたい。, 一方、岡田啓介元首相や近衛文麿前首相による終戦工作がサイパン陥落前後(1944年7月)から本格的に始まっている。, が、これはまだ具体的なものとはいえず、まずは東条英機内閣の退陣につながるも、まだ軍部を巻き込んだものとは言えなかった。, 「敗戦必死なりと陸海軍当局のひとしく到達せる結論にして、ただ、今日はこれを広言する勇気なしという現状なり」(近衛日記), これは木戸内大臣に当てられた意見書で、日付は1944年7月。この時点で木戸とともに皇族内閣にて降伏するというシナリオもできていた。ただし陸海軍の強行派が戦争継続を主張しているうちは講和は難しいであろうという認識でもあった。(『木戸幸一日記』), 1944年9月26日に木戸内大臣に対して、昭和天皇は敗色濃厚なドイツの来るべき降伏にあわせて講和をすすめることができないかとの意見を述べている。(『重光会議手記』)だが一方で次のようにも語っている。, 「私は参謀本部や軍令部の意見とは違い、一度レイテで叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見できるのではないかと思い、レイテ決戦に賛成した」(昭和天皇独白録), しかし、レイテ沖の海戦で当時の残存海軍兵力の主力が壊滅し、陸上でも1944年12月には大勢が決してしまう。, さらにサイパン島などマリアナ諸島がすでに陥落していたこの時期、ついに1944年11月より東京の空襲が本格化する。当初は軍需目標に対する精密爆撃だったのが、次第に無差別都市部爆撃となり、1945年1月14日には伊勢神宮が被害を受け、同27日には銀座周辺が爆撃される。, そのような状況下、1945年2月には天皇は各重臣と戦争の先行きについて意見を聞く個別の会談を行った。, 出席者は平沼、広田、近衛、若槻、牧野、岡田、東條。すでに戦争終結にむけた動きを極秘裏に行っていた岡田・牧野もここでは敗戦受け入れの結論は述べず、唯一近衛のみが和平を主張する。「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる近衛上奏文が出されたのはこの時。近衛は前年から東條内閣の打倒工作と終戦工作を極秘裏に進めていた。, 「参謀総長などの意見として、たとえ和を乞うとしても、もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむつかしいというが近衛はどう考えているか。梅津や海軍は、台湾に敵を誘導しうれば、こんどは叩きうるといっているが・・」(「侍従長の回想」藤田尚徳), この近衛との会談の5日後の2月19日に米軍は硫黄島に上陸。さらに6日後に東京大空襲が開始される。, なお、近衛に語った「もう一度の戦果」というのは真近に迫っていた沖縄戦も念頭にあったはずである。沖縄戦は1945年3月26日から開始され、4月6日には最後の組織的な海軍の反撃(菊水作戦)も失敗に終わる。天皇は次のように語る。, 「私はこれが最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまたやむを得ぬとおもった」(昭和天皇独白録), 「沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、ビルマ作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して相当の打撃を与え得るのではないかと思って梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。」(昭和天皇独白録), 「雲南作戦も望なしということになったので、私は講和を申し込むより外に道はないと肚を決めた」(昭和天皇独白録), 結局は「絶対国防圏」とされたサイパンの陥落から、いくども講和のための一撃を狙い、そして失敗してきたわけである。, そしてこの翌日、4月7日鈴木貫太郎内閣組閣。2.26事件で軍部に狙われ、九死に一生を得た天皇の最側近のこの人が内閣を組織するという意味は、すなわち対軍部ということであろう。, 「鈴木貫太郎は日本のパドリオだという噂が一斉に流れたんです。バドリオとはムッソリーニの後に政権の座につき、イタリアを終戦に導いた首相ですからね。つまり鈴木さんは戦争を終結させるための首相だというのわけですよ。この噂を聞いて軍の中の本土決戦派の連中は鈴木さんの自宅まで大挙おしかけていって、『総理、あなたは戦争を止めさせるために総理になったのですか』と迫った」, だが、鈴木貫太郎はこのあたりで大芝居を打ち始める。「貴公のようなものがいる限り日本は安泰。本土決戦に向けて邁進しよう」というような回答がわざわざ新聞にまで掲載されることになる。 この後もなおもポツダム宣言に条件付きで応じるか、無条件かをめぐって陸軍が強行に条件付きを主張するも、再び14日に天皇の意向が示された。そして翌日に終戦となるも、この日にはいわゆる宮城事件という近衛師団将校の反乱が起きるも、これは鎮圧された。, なおソ連による8月9日対日参戦布告は、広島への原爆投下を知り、ソ連の仲介や圧力なく日本がアメリカ単独で降伏してしまうことを恐れてのことだったとの説が有力である。, (1)少しでも大きな損害を与えて、それを契機に和平を図る(天皇による一撃和平論) 1943年9月~1945年6月, (2)ソ連を通じて講和に持ち込む(戦争指導者会議での決定) 1945年6月22日~1945年8月9日, その間、近衛文麿を中心とする工作もあったが、これが直接の成果を結ぶことはなく、むしろ沖縄戦の敗北と日本各都市が壊滅的になるほどの空襲をへて、やっと(2)ソ連を仲介とした和平工作が動き出した。ここまで、昭和天皇の言う勝利の見込みを失ったという1943年9月から1年と9ヶ月。, そしてソ連を仲介とする工作も、これも実を結ばず。これは単に陸軍を中心とする国際情勢を甘く読んだが故に単に終戦をおられせただけの結果となる。ポツダム宣言が出た7月26日もこれに積極的に受諾の動きは見当たらない。むしろこれに対する国内世論と陸軍への目配せを考えた鈴木首相の発言がマイナスになった。, 陸軍を中心とする戦争継続の強硬派の存在という原因がもちろん最大の終戦が遅れた原因となるのは当たり前の話だが、これに輪をかけて以上のような紆余曲折があったわけである。, そうすると本格的に陸軍首脳も含めたポツダム宣言受け入れのきっかけとなったのは、8/6の原爆投下だったことになる。, 「聖断まで時間がかかったことは問題を残した。太平洋戦争における日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどがサイパン陥落(1944年7月)以後であるこを考えればなおさらである」(『昭和天皇-理性の君主の孤独』古川隆久), 拝見いたしました。何故こんなことになってしまったのでしょうか。 先の戦争を終わらせたのは、原爆投下とソ連の参戦だといわれている。原爆投下だけで充分だったとか、いやソ連の参戦の方が決定的だったと唱える研究者もいる。, 筆者はこのどれにも与しない。原爆投下とソ連の参戦は、必要条件ではあるが、十分条件ではなかったからだ。十分条件は、ポツダム宣言を受諾し、降伏しても国体護持ができるという確信を天皇と重臣たちが持てたことだ。, 事実、昭和二〇年八月一二日の皇族会議で、天皇が連合国に降伏することにすると告げたとき、朝香宮に「講和は賛成だが、国体護持ができなければ、戦争を継続するか」と問われたのに対し「勿論だ」と答えている。つまり、国体護持ができるという確信を天皇や重臣が持てなければ、戦争は続いていたということだ。, また、天皇は八月一二日と八月一四日の二度、国体護持に不安があるので、ポツダム宣言を受諾しないよう求める阿南惟幾(これちか)陸軍大臣を「朕には確証がある」といって退けた。降伏するならクーデターを起こすと陸軍強硬派が叫んでいるのも知っていた。内乱状態になるかもしれないという緊張感のなかで、天皇は確信をもって日本と日本国民の命運がかかったこの決断をしたのだ。, にもかかわらず、天皇と和平派の重臣がこのときどんなインテリジェンスを持っていたのか、これまで問われることはなかった。天皇が運まかせで、この重大な決断をしたかのように思われてきた。, 拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作』で筆者は、「スイス諜報網」が日本側の天皇と重臣たちとアメリカ側の大統領および閣僚たちの間の秘密のコミュニケーションの回路となり、彼らに戦争終結を決断するために必要なインテリジェンスを与えていたことを明らかにした。, 「スイス諜報網」とは、日本側の北村孝治郎、吉村侃(かん)(ともに国際決済銀行勤務)、岡本清福(きよとみ)(スイス公使館付武官、陸軍中将)、加瀬俊一(しゅんいち)(駐スイス公使)とアメリカ側のアレン・ダレス(米戦略情報局スイス支局長)を、フリードリッヒ・ハック(ドイツ人で元日本海軍御用達の武器商人)、ペール・ヤコブソン(スウェーデン人で国際決済銀行幹部)がつなぐことで形成された諜報・コミュニケーション網のことだ。, このネットワークこそが、ポツダム宣言のアイディアをジョセフ・グルー(米国務長官代理)に与え、エリス・ザカライアス米海軍大佐に対日放送を構想させ、天皇にポツダム宣言受諾を決断させるインテリジェンスを与え、最終的に終戦に導いたのだ。, 戦後も七〇年になるが、見落とされてきたものはまだある。本書がその一つを見つめなおすきっかけになればと思う。, 2015(平成27)年10月号で通巻550号を迎えました。読書情報誌としての重要な役割の情報発信はもちろんのことですが、「波」連載からは数々のベストセラーが誕生しています。これからも、ひとところにとどまらず、新しい試みで、読書界・文学界の最新の「波」を読者の方々にご紹介していきたいと思っています。, 【購読のお申し込みは】 ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration )は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において日本に対して発された、全13か条から成る宣言である。 正式には日本への降伏要求の最終宣言( Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」 ともいう 。