〜ご苦楽レストラン〜』の出演オーディションを受けて合格したことも夫人の述懐とともに紹介された。, 北尾が活躍した時代は横綱・千代の富士の全盛期時代だったが、それでも対千代の富士戦は幕内対戦成績で6勝8敗(他に決定戦2敗)、横綱昇進後は2勝3敗(決定戦1敗)と健闘していた。北尾は横綱昇進後、千代の富士以外の横綱は眼中になかったという[5]。千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「もし(双羽黒が)廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのかは分からない。又その後の53連勝を初め、通算1000勝や優勝31回も達成出来なかったかも知れない」[6]「それだけにあの廃業事件は、自身にとっても本当に残念な出来事だった」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。, 弟弟子に対するイジメまがいの行動(付人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、横綱時代に付き人7人中6人が巡業から逃げ出し、1週間後に5人が帰って来て双羽黒が直接謝罪したものの、戻らなかった1人はそのまま廃業したと報道された。一方で後年本人が語ったところによると「私は相撲をがんばった結果、外食したり、贅沢なものを食べることもできる。身銭を切って私がそうすることで、彼らにも『いつかはこういうおいしいものを、自分のお金で食べられるように、相撲をがんばろう』と思ってほしかった。でも、それが彼らの足を引っ張ってしまったんですね。自分だけおいしい物を食べて、付け人たちには食べさせないなんてことは、私にはできなかったんです」といい、寧ろ自身は付き人に甘い横綱であったと主張していた[5]。, 怪力ぶりは新日本プロレス時代も健在で、左右各50㎏のダンベルカールをこなしていた[53]。, 大相撲廃業前から稽古嫌いで有名だったが、プロレス転向後も練習を嫌がりたびたびトラブルを起こした。試合でも過剰なパフォーマンスや挑発的な言動を繰り返してプロレスファンから反感を買い、程なくして解説者から「存在自体がヒール」と呼ばれる扱いを受けている。北尾本人はそれらを「不当な評価」と言い切り、ブーイングに対して口汚く言い返すこともあるなど不遜な態度は大相撲時代と変わらなかった。, しかし、SWSで起こした「北尾事件」以降は、ブーイングを浴びせかけられながらも四方の客席へ一礼をしてから試合に臨むなど、かつての「わがままな問題児」という姿は鳴りを潜めていった。その後は自ら道場を立ち上げ、岡村 隆志をはじめとする弟子の育成に取り組み指導者としての道を歩み始めた。, 部屋を脱走したと報じられた羽黒海憲司の要請で、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーとして条件付きながら相撲界に復帰を果たし、短期間ながらも「報酬はいらない。今でも相撲が好きだ」と猛虎浪栄ら後進に熱心に指導を行っていたという。角界を去って以降、現役時代の暴れん坊のイメージとはかけ離れた優しさでも知られるようになり、死去の際は「(当時の)師匠と折り合いが悪かっただけ。実際接すると普通の人だった」と角界関係者からも惜しまれた[41]。Uインターで北尾と対戦した高田延彦は「いつか再会して言葉を交わしたかった」と早すぎる死を悼み、格闘技塾「北尾道場」で指導を受けた望月成晃も「驚きました。20年以上も連絡を絶ったままだったので…」とコメントしている[61]。, 一方で、北尾存命中の2010年にリアルライブが匿名の「角界関係者」「夕刊紙・相撲担当記者」による消息筋の伝聞形式で配信した記事によれば、北尾は同年の貴乃花光司の日本相撲協会理事選挙への立候補を巡る騒動の前後から、元横綱のみが参加できる親睦会である横綱会を通じて角界に影響力を行使しようとする動きを見せたり、当時NHK Eテレの子供向け番組『にほんごであそぼ』にレギュラー出演していたKONISHIKIのように、自身も子供向け番組のタレントとして芸能界入りしたいという意志を示した等、没後の関係者の証言から判明した事実とは明確に異なる「北尾の近年の動静と意向」が報じられたりもしていた[62]。, リアルライブの配信前後の実際の動向としては、力士時代に同じ立浪・伊勢ヶ濱連合(現在の伊勢ヶ濱一門)で稽古を共にし、プロレス加入後には対戦経験のあった維新力浩司は、北尾の亡くなる約10年前にプロレスのイベントへの参加を求めた時、「もう自分は表舞台には出ないと断られた」ことを明かしている。また「体調もあったかもしれないが、増えた家族を大切にしたかったのかな。幸せな時間もあったのでは」とその死を偲んだ[63]。, プロレス時代の番記者であった元東京スポーツ記者の柴田惣一は、北尾の結婚披露宴は豪華なものであったが招待客に角界関係者はほとんど見かけず、二次会に至っては夫人の招待客である医療関係者ばかりで新郎側は自分だけだったと述懐し、「確かに誤解されやすい一面もあった。残念至極である」「決して話のわからない人ではなかったのだが…」とプロレスTODAYのコラムに綴っている[64]。, 98年に突如としてプロレスラーとしての現役を引退し、03年の立浪部屋アドバイザーもごく短期間のうちに活動を終えた理由の一端としては、自らの過去の事績により一人娘である雪城ハルネの将来に悪影響を与えることを避けたかった意志があったものとみられる。北尾没後の雪城の証言によれば、北尾は雪城が物心つく年齢の頃には既に角界やプロレス・格闘技界とは完全に関係を断っており、角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、ナイフマガジンなどの趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。家族旅行へよく出かけたり、テレビゲームで遊んだりと子煩悩な父親だったが、家庭内で北尾や夫人は現役時代の話をほとんどしなかった為、雪城は子供の頃は北尾の事を「他の家のお父さんと比べて、体が大きくて多趣味な人」程度しか認識しておらず、北尾の生前の事績を詳しく知ったのは晩年の闘病生活以降の事であったという[43]。, 死去の際、夫人は「何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いなとてもピュアな人でした」とその人物を語った[46]。, プロレス時代の北尾は恵まれた体格を利して圧力をかけ、大技で一気にダメージを与えるという試合運びを好んだ。元大相撲横綱という肩書きは伊達ではなく、攻めに転じた際は日本人離れしたパワーで相手を圧倒した。, しかし防御面にやや難があり、レスラーとして持ち技は多い方ではなかった。そのため試合を膠着させてブーイングを浴びる場面もあったが、後にプロレスラーとしての活動に注力するようになってからは小技もある程度こなすようになり、タッグマッチでも活躍するなど技術的な成長を見せている。, 親方曰く、「(北尾は)怒られると若い衆に八つ当たりするから誰も注意しなくなるし、私に言う人もいなくなる」とのこと。, 現在大関昇進の基準は「三役(関脇・小結)の地位で直前3場所合計33勝以上」が目安とされている。3場所前北尾の地位は東前頭筆頭と三役でなかったが、, 当時、関脇・保志(大関昇進時に「北勝海」と改名)の大関昇進が決定的で、保志が大関に昇進すると6大関と大関が過剰になってしまい番付や取り組み編成に支障が出ると協会が判断したため、北尾の横綱昇進はいわば「, 北尾は「『白鳳(はくおう)』を名乗りたかった」とも言われた。その後、北尾は後年になって「『素質の北尾、努力の保志』とレッテルを貼られ、稽古嫌いと言われ続けたことは非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力したのに誰も評価してくれなかった」と述べている一方で、横綱昇進後も本名で取りたかったとも伝わっている。, 明治時代後期に活躍した幕内力士で、立浪襲名後に双葉山定次、羽黒山政司の両横綱を育てた人物。1952年死去。, Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p64, のちに1987年9月場所後に昇進した、第62代横綱・大乃国も東正横綱を一度も経験しなかった。, 双葉社『俺たちのプロレス SWS30年目の真実 証言06藤原組とメガネスーパー』P59, 復帰に際して記者会見を行った際に頭を丸刈りにして現れたり、用意した声明文を読み上げる際に丁寧な表現を使うなど、既にそうした態度の一端は窺えた。, キャンセルとなった事情は明らかになっていない。もちろんキャンセルが確定した後だが、北尾は大会と同日、すなわち真裏で行われた, 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P104, https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/北尾光司さん-早すぎる死-元横綱・双羽黒/ar-BBVnvy6#page=2, 元横綱・双羽黒、北尾光司さん死去 ケタ外れの才能に翻弄された相撲人生 ちゃんこの味付けめぐり師匠と衝突…廃業へ, 北尾vs.テンタ戦は八百長発言より『うるせえババア!』の方が問題です(船木誠勝) - YouTube, 元横綱・双羽黒の北尾光司さんに死去報道 ネットでは「若すぎる」「稀代のヒールキャラ」と悼む声, 2月に死去した北尾光司さん、重度の糖尿病で両脚切断を告げられていた…妻が壮絶な闘病を明かす(スポーツ報知/報知新聞社 2019年6月28日), 元横綱北尾光司さん 両脚切断の危機、自殺未遂…知られざる闘病生活を妻が初告白/デイリースポーツ online, http://www.tokyo-art.info/g/j-theater/gallery.htm, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=北尾光司&oldid=80399774, デビューは新日本プロレスだが実際には所属選手ではなく専属フリー契約扱い(「アームズ」という芸能事務所に在籍)だった。, そのために北尾は新日本の社員として扱われる他の所属選手と違って、個別にフロントとの交渉を行っていた。, 待遇面に関しても新人選手ではなく所属選手と同等、もしくはそれ以上の扱いを受けていた。, 花籠部屋が輪島の不祥事によって消滅した際、立浪部屋はかつて花籠部屋が使用していた九州場所宿舎「ピオネ荘」を譲り受けた。そのため、輪島とは共にピオネ荘を利用していた間柄となったが、同時にピオネ荘を利用した横綱2人が不祥事で角界を去るという縁起の悪い事態となっている, 春日野には大変に目をかけてもらったそうであり、自著にもその旨を記している。春日野もまた大相撲時代の北尾にかなり理解のある態度を示していた。, 北の湖のことを横綱として尊敬しており、「目標とする力士は誰ですか?」と聞かれた時でも必ず北の湖の名前を挙げた。後年のインタビューでは「相撲のすべてがお手本であり、目標」と形容しているが、当時は他の部屋の横綱の名前を出したことが原因でずいぶんいじめられたという, 横綱昇進後、部屋関係者からは常に双葉山や羽黒山を見習うように言い聞かされていたが、固定観念を押し付けられる辛さを感じ、個性を貫くことを重視していた。加えて「私の場合も、オリジナリティを貫いた結果、横綱に上がることができたのです」とも後年言い残している, 横綱時代、支度部屋で付け人が「こんなやつ、負ければいい」と吐き捨てるなど、付け人に尊敬されない一面があった, 幕内時代に優勝次点は5回、優勝同点は2回記録するも、念願の幕内優勝は一度も達成出来なかったが、これは当時元大関・, 殊勲賞:5回(1984年11月場所、1985年3月場所・7月場所、1985年9月場所・11月場所), 双羽黒 光司(ふたはぐろ - ):1986年9月場所 - 1987年11月(番付上では1988年1月)場所. 元横綱・双羽黒の北尾光司さんが55歳の若さで亡くなっていたと、フジテレビなど複数のメディアが報じた。北尾さんは、部屋を脱走して廃業し. !八百長ばっかりやりやがって!」と発言。さらに観客に向かって「お前らこんなもの見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している[35]。, その後は「北尾事件」としてプロレス誌だけでなく一般週刊誌もスキャンダラスに報じ、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し田中八郎社長に辞表を提出(田中は慰留)。ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦はオレがやる」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。この決定には北尾も「仕方ありません」と受け入れざるを得なかった。, 北尾の没後、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している[36]。それによると、試合直後の控室で一連の言動を注意した現場監督の田中社長夫人に対し、北尾が罵声を浴びせた上に椅子を投げつける暴挙に及んだという。椅子が直撃していれば怪我では済まなかったこの行為に、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境にレスラーへの態度を一変させてしまったという[36][37]。この件については当時は報じられていなかった。, なお、藤原喜明の証言によると、SWSサイドでは解雇後にプロフェッショナルレスリング藤原組のリングで復帰させるプランを考えており、田中社長同席のもと、北尾と藤原が面談したが、北尾が挨拶もそこそこにノートパソコンを取り出し「私はこう言う感じで(試合を)やりたい」と自分の売り出し方をプレゼンテーションし始めたので、呆れた藤原がその場で帰ってしまい藤原組での復帰は無くなったという[38]。, 新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は難しい情勢であり、事実上の永久追放」と見る関係者も多かった。, SWSを解雇された北尾はしばらくの充電期間の後、「空拳道」の師範、大文字三郎を伴って謝罪会見を開き、その場で「武道家の道を歩みたい」と宣言、総合格闘家への転向を発表した。しかし当時は総合格闘技路線の試合を組む団体は少なく、この後およそ1年にわたり北尾は移籍先を探して奔走することとなった。, それから約1年後の1992年3月、UWFインターナショナルが北尾の参戦を発表、マット界への復帰が正式決定した。Uインター側は当初、何かと悪評がついて回る北尾の起用に消極的だったが、同団体のプロモーション業に携わっていた宮戸優光が「北尾は道場に通うようになってから礼節が身につき、人間的に落ち着いたようだ」という話を耳にし、ワンマッチ契約の条件付きで参戦が決まったという。そして同年5月8日、Uインター横浜アリーナ大会で山崎一夫と対戦し北尾が勝利を収めた。この試合直後に北尾は山崎との再戦について問われ、「勝負がついた相手(山崎)とはもうやらない。次はもっと強い相手がいい」と語り、山崎を格下扱いする発言だとマスコミに書き立てられる結果となった。しかし実際は、北尾のヒール的なイメージを利用して次の高田戦を盛り上げようとした意図的な発言だったことが後年に様々な文献で明らかにされている。, 山崎戦から約半年後の10月23日、北尾は日本武道館で高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨む。この試合は当初、山崎戦と同じ時間無制限一本勝負と予定されていたが、「北尾の代理人」を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否、試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールに変更された。この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返し、試合直前になってもブック(試合の筋書き)についてクレームをつけて試合放棄をほのめかしたため、交渉役を務めていた宮戸が北尾の控え室へ駆け込んでいき怒声を上げたという逸話が残されている。結局この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。諸説あるがこのハイキックは高田側が意図的に行った「ブック破り」で、本来は判定による引き分けに終わるはずだったとされている。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思わなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる、前述の山崎戦では試合直後、ダウンしている山崎にも一礼するなどの謙虚さを見せて、過去を知るファンを大いに驚かせた[39]。, 1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。この時期の北尾はプロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになり、天龍とタッグを組むことも多かった。しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行で行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなった。, 初期のPRIDEやUFCにも参戦しており、1996年4月5日に行われた「第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング」では、ペドロ・オタービオと対戦して1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗れた。同年5月17日に行われたUFC 9では、 マーク・ホールと対戦、鼻の骨折によるドクターストップで敗れた。1997年10月11日にはPRIDE.1においてネイサン・ジョーンズと対戦、総合格闘技戦で初勝利を挙げる。, 1998年5月1日に開催された全日本プロレス・東京ドーム大会では、同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル[40]。その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明し、同年10月11日のPRIDE.4で引退セレモニーを行った。武輝道場は、当時所属選手の岡村隆志が引き継いだ。, プロレスの引退から5年後の2003年、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した[41]。アドバイザー在任は短期間であったことが、後年判明している[30]。退任後の動向は詳らかではないが、生前宴席で同席した相撲界の関係者が尋ねたところ、岐阜県関市でナイフのデザイナーをしていると答えたという[42]。また、歴代の横綱が集まる横綱会へ出席するなど日本相撲協会との関係も改善していた。, それから数年後のある時期に行われた光文社のインタビューでは、当時の先代立浪の指導方針に対してその真意を汲み取る様子を見せ、先代立浪に対する感情は軟化していた。インタビューにおいては「私は、自分のまわりにいた若い子たちに、少しでも楽をさせてあげたいという気持ちがありましたが、師匠は昔風に、若い者にはつらい思いをさせないと強くなれないという考えだったので、そこに心のズレがあったように思います。(中略)修行途中で、精神的な部分がまだ未熟な人間に贅沢をさせたり、わがままを聞いたりすると、こういうことになってしまう。相手をつぶしてしまうことだったんだということを、当時の自分は把握できていなかった。私自身の心の未熟さだったと思っています」と語っていた[5]。, 同時に廃業事件騒動についても「これまでのことなども含めて、師匠と意見が対立してしまい、お互いに歩み寄れればよかったんですが、中々そういう訳にもいかなかった。私は、部屋の個室とは別に自分で別にマンションを借りていたので、自分のマンションで冷静さを取り戻そうと思っていました。しばらく頭を冷やしたら、また師匠と話をするつもりでいたのです。ところがその最中に当時、師匠の女将さんが、マスコミ各社に片っ端から電話をしたことにより、事態は最悪に次ぐ最悪になってしまった。師匠と私は『廃業』などいう選択をするつもりは、毛頭なかったんですよ」と改めて自分に非はないと主張。そして現況については「表立った活動は特にしていません」とした上で「このまま時が経って、風化されればいいかなぁという気持ちだけですね」と今後表舞台に出る意志がないと表明していた[5]。, 元気なころは娘を旅行に連れて行ったり一緒にゲームをしたりしていたが、一方で自分に付き纏う問題児のイメージは気にしていたようであり、自分が人前に現れて娘がからかわれるといけないと思って娘の入学式や卒業式には参列しなかった。北尾はまた、娘を女の子らしく育てようとリカちゃん人形を与えた一方で「顔にケガをしたら大変だから」と格闘技系の習い事はやらせなかった[43]。, 2013年から腎臓を患い闘病生活を送っていたが、闘病生活を送り始めた頃から相撲界とは音信不通となっていた[6]。2019年2月10日、慢性腎不全のため千葉県の病院で死去。同年3月29日に訃報が明らかになった[44][1][45]。55歳だった。, 生前からの本人の希望で葬儀は家族葬として行われ、妻と娘だけが葬儀に参列した[46]。娘は北尾の死去の時点で24歳であった[43]。なお、立浪部屋のアドバイザーについて、立浪親方は「交流はその時(2003年の就任時)の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と発言している Copyright© 2月10日慢性腎不全のため、千葉県内の 失踪経験がある有名人と言えば誰が居ますか? ・北尾光司・ジョージ秋山・藤谷美和子・関根恵子・麻生よう子・ジョン万次郎・高橋恵子・超電子バイオマンのイエロー 元横綱双羽黒の北尾光司さん死去、55歳 優勝ゼロ、師匠とトラブルで廃業 - 産経ニュース 1987年12月31日、廃業会見を行なった横綱の双羽黒。後に. ※令和元年(2019.5.1~)動物などもたまに含む2020.1~随時更新→ 令和2年亡くなった人はこちら 12月31日 井上善夫 78歳 元プロ野球選手(投手)敗血症日大二高~西鉄~巨人~広島 引退後は恵比寿で飲食店経営渥美和彦 91歳 東京大名誉教授故手塚治虫さんと同級生。 ?」とわめき散らした大スキャンダルになりプロレス界からも追放されてしまっています。, 身体能力に恵まれていましたが、練習嫌いやわがままな性格から、トラブルが多かったのでしょうね。。。, そして、結婚された奥様は北尾淑惠(よしえ)さんといい、医者ともありましたが奥様や娘さんは一般人のため情報少ないですね。, しかし、TBS「爆報!THEフライデー」でテレビ初出演をされ、6年間の闘病生活などを明らかにされていました。, 北尾光司さんは、美人な娘に恵まれたと言われていたそうで、もしかしたら娘さんも番組に登場されるかもですね。, そして、病状がだんだん悪化されて具合が悪くなり、寝たきりに近い生活をされていたそうです。, トイレなども一人で行くことができず亡くなる6年前には両足首に褥瘡(じょくそう)ができ歩行困難になり、医師からは両足切断を進めされたほど悪化されていたとありました。, 娘さんがお見舞い行かれても誰なのかどこなのかもわからなくなっていき、娘さんを認識することもできなくなっていたと娘さんが言われていました。, 娘さんのことがわからなくなってしまうなんて、最後は本当に大変だったでしょうね。。。, このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。. その妻である北尾淑惠さんの経歴について調べてみました。 北尾淑惠さんと北尾光司には娘がいるということなのですがどのような娘さんなのか気になります(*^^*) 北尾淑惠さんの職業は精神科医と言われていますが実際のところどうなのか見ていきたいと思います! 北尾氏の夫人、北尾淑惠(よしえ)さん 北尾光司は6年間の闘病生活ののち、2月10日慢性腎不全のため、千葉県内の病院で他界いたしました。 葬儀は生前からの本人の希望で娘と私だけの家族葬としました。 ⇒菊川怜 結婚相手の旦那はイケメンの穐田誉輝。名前や馴れ初めは? 北尾光司(きたおこうじ)さんは1963年8月12日生まれの元大相撲力士・元総合格闘家です。北尾光司さんは大相撲力士、総合格闘家としての顔以外にも、現在までスポーツ冒険家、武道家、プロレスラーとしても活動していました。 元横綱でプロレスラーの北尾光司さんがすでに亡くなっていたという訃報が飛び込んできました。 北尾光司さんの妻や子供の画像、自身が立ち上げた武輝道場についても確認します。 この記事について共感していただけた方は是非、ツイッターやLINEなどSNSシェアお願いしますm(_ _)m 1992年10月23日、UWFインターナショナル日本武道館大会にて高田延彦が元横綱だった北尾光司と対戦した。 北尾は中学卒業と同時に立浪部屋へ入門し、1979年に初土俵を踏み、1986年に1度も優勝したことのないまま横綱に. 付き合いがなかったという事が言える 大相撲の元横綱双羽黒(ふたはぐろ)の北尾光司(きたお・こうじ)さんが2月10日、慢性腎不全のため死去したことが29日分かった。55歳だった。 双羽黒こと北尾光司さんがお亡くなりになったそうです。 自分のイメージとしては、プロレスラー北尾の方が強いです。 相撲時代も、親方と問題を起こしたり、後輩力士… 元横綱 北尾光司さん | HAJIME-LAND 御名前応援詩 新型コロナ. でも見なくなっていたので、現在は何を 来て欲しかったかも知れませんね。, また力士で格闘家としても活動していた 良かったので、まだまだ北尾光司の と考えていたようですね!, 現在の娘さんの職業も気になるところ